「単純化という病 安倍政治が日本に残したもの」に込めた思い
拙著【単純化という病 安倍政治が日本に残したもの】(朝日新書)が発売になりました。
8年近くの第二次安倍政権の間に、「安倍一強体制」と言われるほどに権力が集中し、自民党内でも、政府内部でも、安倍首相と側近政治家や官邸官僚には逆らえず、その意向を忖度せざるを得ない状況になりました。安倍支持派と反安倍派との対立は激しくなり、「二極化」が進み、両者の対立は、妥協の余地どころか、議論の余地すらないほど先鋭化しました。
こうした中で、安倍政権側、支持者側で顕著となったのが、
「法令に反していない限り、何も問題ない」
「批判するなら、どこに法令違反があるのかを言ってみろ。それができないないなら、黙っていろ」
という姿勢でした。その背景には、「法令」は、選挙で多数を占めた政党であれば、どのようにも作れるし、変えることもできる、閣議決定で解釈を変更することもできるし、憲法違反だと指摘されれば、内閣法制局長官を、都合のよい人間に交代させて憲法解釈を変更すればいい、という考え方があったのだと思います。
このようにして、多数決で選ばれた政治家が「法令」を支配し、そこに「法令遵守」が絶対という考え方が組み合わさると、すべての物事を、「問題ない」と言い切ることができます。「法令遵守」と「多数決」だけですべて押し通すことができることになります。
これが、本書の主題の「『法令遵守』と『多数決』の組合せですべてが解決する」という「単純化」です。
そういう「単純化」が進んでいった第二次安倍政権の時代には、森友、加計学園、桜を見る会問題など、多くの問題が表面化しましたが、安倍批判者が追及を始めると、安倍氏本人から、或いは、安倍支持派から、決まって出てくるのが、「何か法令に違反しているのか。犯罪に当たるのか」という開き直りのような「問い」でした。
黒川検事長定年延長問題での「検察庁法に違反する」との指摘に対しても、
「閣議決定で法解釈を変更した」
ということで押し通しました。
「法令遵守」という言葉自体の問題を指摘してきたのが、これまでの私の“コンプライアンスへの取組み”でした。
2004年、桐蔭横浜大学大学院教授として、六本木ヒルズの同大学のサテライトキャンパスの中にコンプライアンス研究センターを開設して以降、日本社会の法令や規則と社会の実態が乖離し、経済社会にさまざまな混乱不合理が生じていることを指摘してきました。
形式的な「法令遵守」から脱却して「社会的要請への適応」をめざすコンプライアンスの啓蒙活動を展開し、『法令遵守が日本を滅ぼす』(新潮新書)『思考停止社会』(講談社現代新書)などの著作群で、「歪んだ法」や「歪んだ法運用」にひれ伏す日本人の有り様、それを生む構造を指摘してきました。
そこで訴えてきたのが、
「コンプライアンスは、法令遵守ではなく、社会の要請に応えること」
「『遵守』という言葉で法令規則等を『守ること』が自己目的化してしまうことで思考停止に陥る」
ということでした。組織論としてのコンプライアンスは、単に不祥事防止だけでなく、経営とコンプライアンスが一体化することで、組織の活動を健全なものとし、一層発展させていこうとする「前向きな考え方」でした。
しかし、第二次安倍政権に入り、権力が集中し、「長い物には巻かれろ」という風潮の下で「『法令遵守』と『多数決』の組合せによる単純化」が進むと、「法令遵守」を絶対視する人達に対して、法令遵守の「弊害」を指摘し、「脱却」を訴えても、聞き入れられる余地はありませんでした。「多数決の論理」と結びついた「法令遵守」は、彼らに政治的優位と安定的な利益をもたらすドグマなのですから、それに疑問を差し挟む意見を受け入れる余地はないのです。
そういう考え方の集団に権力が集中するにつれ、官僚組織には権力者に阿る「忖度の文化」がはびこり、世の中の価値観もコンプライアンスの考え方も全体として「単純化」していきました。
日本社会にとって、今、重要なことは、第二次安倍政権以降に「法令遵守と多数決による単純化」が進んだ経緯を改めて辿ってみることです。
第一次安倍政権とは異なり、第二次政権で「単純化」が進んでいった背景に何があったのか。森友学園、加計学園では、本来単純ではないはずの問題が「単純化」され、安倍批判者、支持者の議論は全く噛み合わない状況になりました。そして、それ自体が単純な「弁解の余地のない違法事象」であった「桜を見る会問題」では、安倍首相が国会で度重なる虚偽答弁まで行って問題の隠蔽が図られました。
こうして安倍政権下で進んでいった「『法令遵守』と『多数決』の組合せによる単純化」は、菅政権、岸田政権にも引き継がれ、安倍氏銃撃事件以降も、国葬実施をめぐる問題などで同様の事態が生じています。
【単純化という病 安倍政治が日本に残したもの】では、このような経過を振り返り、日本社会における「単純化」の本質に迫ります。
多くの国民が「法の素人」という意識を持つ日本では、 “お上”によって「法」は正しく運用されていると無条件に信じ、「法」にひれ伏してしまう傾向があります。法の内容或いはその運用に「歪み」が生じていても、国民にほとんど知られることなくまかり通っています。そういう社会では、政治権力が集中することによって「法令遵守」のプレッシャーの弊害は一層顕著になり、「法令遵守と多数決による単純化」による弊害がさらに深刻化します。そういう「歪んだ法」とその運用の実態を、具体的な事件、事故等を通して指摘したのが、今年3月に上梓した【“歪んだ法”に壊される日本 事件・事故の裏側にある「闇」】(KADOKAWA)です。
この2冊の拙著に込めた、日本の政治と社会への危機感が、少しでも多くの人に共有されることを願っています。
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