「統一教会問題」での“二極化”、加計学園問題の「二の舞」にしてはならない。
安倍晋三元首相殺害事件に端を発した旧統一教会の反社会的活動や同団体と政治の関わりに対する批判は、連日、マスコミでも大きく取り上げられ、大きな社会問題になりつつあります。岸田文雄首相は、「統一教会問題」が原因になったと考えられる大幅な内閣支持率の低下に狼狽したのか、当初、9月だと言われていた参院選後の内閣改造・党役員人事を、急遽前倒しして8月10日に行いました。
この内閣改造は、岸田首相自身が、
「新たに指名する閣僚だけでなく、現閣僚、副大臣を含め関係を点検してもらい、結果を明らかにした上で適正に見直すことを指示したい」
と述べて行ったものであり、「統一教会問題」による自民党への批判を交わす狙いであることは明らかでした。
しかし、ちょうど組閣と同じ日、旧統一教会側が外国特派員協会で記者会見を行い、田中富広会長が、
「当法人は、過去にも『霊感商法』は行ったことはない」
「2009年以降コンプライアンスを徹底し、被害・トラブルは激減している」
などと実態とかけ離れた「正当化」「開き直り」を一方的に行ったことで、逆に、旧統一教会側への批判は一層高まっています。また、「一切非を認めない教団側」に対して、なぜ「関係見直し」を行うのかも明らかにせず、一方的に、「議員個人の点検と見直し」を求める岸田首相の姿勢は、完全に宙に浮いており、何のための内閣改造だったのかわからない事態になっています。
こうした中、改造内閣発足直後から、新閣僚の旧統一教会との関わりが次々と明らかになり、経済再生担当大臣に留任した山際大志郎氏に至っては、組閣後の記者会見で旧統一教会との関係の点検を岸田首相に報告せず、組閣に臨んでいたことが明らかになって批判が集中するなど、新内閣は発足早々から、厳しい批判を受ける状況になっています。岸田首相が、殺害事件から間もなく、前のめりに閣議決定した「安倍元首相国葬」に対しても、安倍氏自身が旧統一教会への関与の中心になっていたことが明らかになったこともあって、世論調査では反対が賛成を大きく上回っています。安倍元首相殺害事件という「一つの刑事事件」によって生じた日本政治の混乱は、抜き差しならない状況になっています。
「犯人の思う壺」論へのこだわり
こうした中、いまだに続いているのが、安倍元首相殺害事件という刑事事件発生を機に旧統一教会への批判が拡大していることに対する、社会の受け止め方をめぐる根本的な意見対立です。
【“「統一教会問題」取り上げるのは「犯人の思う壺」”論の誤り】で、山上徹也容疑者が、旧統一教会に対する「恨み」を晴らす動機で、安倍晋三元首相の殺害に及んだことを契機に、旧統一教会への批判が高まり、政治家との関係等に社会的注目が集まっていることに対して、「山上容疑者の思う壺」だとする見方が間違っていることを指摘しました。
山上容疑者の殺人行為は決して是認されるものではなく厳罰が科されます。それによって、同種犯罪、模倣犯が抑止されます。そのことと、この事件を機に、カルト的宗教団体である旧統一教会の活動やその被害、政治家の関わり等に注目し、社会としてどう対応すべきかを議論することとは、別の問題です。旧統一教会がカルトではなく、政治家が関わること、選挙で応援を受けることも問題はないと考えるのであれば、それを具体的に指摘して反論すればよいのです。
このような私の見解に対して、多くの方が共感し、賛同してくれましたが、一方で、「山上容疑者の思う壺」論に固執し、「共犯者」などという言葉を持ち出す人までいます。その急先鋒が、池田信夫氏です。
私の【前記記事】の引用ツイートで
すでに「思う壺」になっている。郷原さんも紀藤さんも山上徹也の目的を実現するロボットだ。
などと述べたり、【テロに「意味」を与えるマスコミはテロリストの共犯者】と題するアゴラ記事で、私が、同記事で、
犯人の意図するとおりの結果になったからと言って、犯行自体が正当化されるわけではないし、処罰が軽減されるわけでもない。問題は、山上容疑者が行った「告発」を契機として、そのような問題を、社会がどう受け止め、どう扱うか、それらについてどう判断すべきかということだ。
と述べているのを、
これが犯人の思う壺だという批判には、郷原信郎氏も「犯人の意図するとおりの結果になった」ことは認め、「正当化しているわけではない」と苦しい弁解をしている。
などと全く不正確に歪曲して引用し、
統一教会に報復して世の中を騒がせることが山上の目的であり、郷原氏や紀藤氏は犯人の目的を(期待以上に)実現している
などと、なおも「犯人の思う壺」論に拘り続けて、私や紀藤弁護士を批判しています。
このような見解が全く論外であることについては、【前記記事】で述べたことに尽きており、池田氏の書いていることに取り合うつもりはありません。
しかも、池田氏は、7月25日に、私のYouTube番組《郷原信郎の「日本の権力を斬る」》で【「アベガー」批判・池田信夫氏と、安倍政治の「光と影」、殺害事件について“徹底討論”】と題して対談(7月26日公開)を行った際にも、以下のように、安倍元首相殺害事件を機に、旧統一教会と政治との関わりの問題を整理する必要があるとの私の意見に対して、ほぼ同じ意見を述べています(17:55~)。
郷原)その時の問題から90年代、反共というのが必要でなくなった90年代に霊感商法の問題とか合同結婚式の問題とか、普通の宗教ではありえないような、まともな宗教団体ではない問題を多数起こしたことは間違いない。だからカルトだと言われても仕方のない状態だったと思います。
その旧統一教会が基本的にずっと脈々と続いて今に至っているのではないか、名称は変わっていますが。ではその実態が本当に完全に変わったのか、90年代の旧統一教会と。
どうもやはりいろいろな話を聞くと表面的にはコンプライアンスがどうのこうのと言い訳を整えたようなところはありますが、基本的な実態は変わっていないのではないか。
だから私は、大昔のことは直接今には関係していないから、驚きの連続ですがそれは別として、今やはり90年代以降の旧統一教会のカルトというところに注目をしたときに、やはりまさに今回の山上容疑者がそうであるように、大変な苦しみ、大変な絶望を味わっている人たちがいるわけです。その人たちをどうするのかということを考えなければいけない。
被害に遭った人たち。これはこれまで政治が十分に向き合ってこなかったのではないか。そこにいろいろなリスクが現に発生していて、今回少なくとも教団に向けての恨みが根本にあったのですが、それがたまたま動画メッセージなどが非常に印象的なものであったために、安倍元首相の方に攻撃の刃が向かってしまったということだと思うのです。
そういう意味では、この事件を機に旧統一教会と政治との関係をやはりしっかり整理する必要があるのではないか。
池田)それは彼らが反社会的な行動をやったことについてはきちんと整理しなければいけないし、与野党がそれを支援するようなメッセージを出していたということも軽率だと思います。だからといって殺していいということにはならないけれども、それはそれとしてきちんと処断すべきだと思います。
池田氏は、私の意見に同意し、「彼ら(旧統一教会)が反社会的な行動をやったことについてはきちんと整理しなければいけない」「与野党が(旧統一教会を)支援するようなメッセージを出していたこと」に対しても、はっきりと「軽率だ」と述べているのです。
それが、どうして、前記のような「犯人の思う壺」論になってしまうのでしょうか。
しかも、「犯人の思う壺」論は、池田氏だけではありません。爆笑問題の太田光氏が、8月7日放送の『サンデー・ジャポン』(TBS系)で、
「そもそも、この問題、きっかけがテロであったことをマスコミはもう少し自覚しないといけない」
「テロによってわれわれが動き出したっていう自覚を持たないと。こうすれば社会が動くって思う人が潜んでいる」
などと述べ、社会学者の古市憲寿氏も、旧統一教会批判に対して、
「山上容疑者の目論みどおりになってしまう」
(8月8日の『めざまし8』(フジテレビ系))と述べるなど、いまだに「犯人の思う壺」論に拘り続ける人は少なくありません。
こうして「統一教会問題」による自民党や政権に対する批判が高まる一方で、「犯人の思う壺」論を声高に主張して、批判を抑えようとする意見も根強く、相互の対立が深まることで、安倍政権時代の森友・加計学園問題をめぐる「二極化」と同様の構図を生じさせています。
その背景には、安倍元首相殺害事件の直後には比較的抑制的だった野党側の政権批判の姿勢が、ここへきて、統一教会問題への与党自民党批判の高まりから、にわかに、それを攻撃材料にしようとする姿勢が強まってきていることがあります。
野党・マスコミなど、自民党に批判的な勢力が、旧統一教会と自民党議員との関係を持ち出して政権批判を行う。それに対して、反論材料としての「犯人の思う壺」論が持ち出され、対立が一層激しくなるという現在の状況は、第二次安倍政権時代の、安倍支持・反安倍の「二極化」に近い構図になっています。
統一教会の名称変更問題と前川氏の「告発」
安倍元首相殺害事件の犯行動機に関連して、旧統一教会をめぐる問題がマスコミで取り上げられるようになった頃から、文化庁が、2015年に、「統一教会」から「世界平和統一家庭連合」への名称変更を認証したことで、1990年代に、霊感商法や合同結婚式等の問題を起こした「統一教会」の名称を使用しなくてもよくなり、その後の入信勧誘がやりやすくなったとされることに関して、当時の文科大臣であった下村博文氏の関与が取り沙汰されるようになりました。
この問題に関して、2020年12月1日に、元文科省事務次官の前川喜平氏が、鈴木エイト氏のハーバービジネスオンラインの記事を引用したツイートを引用して
《1997年に僕が文化庁宗務課長だったとき、統一教会が名称変更を求めて来た。実体が変わらないのに、名称を変えることはできない、と言って断った》
とのツイートを投稿しています。
鈴木エイト氏は、7月20日、前記YouTube番組《郷原信郎の「日本の権力を斬る」》の【鈴木エイト氏に聞く「旧統一教会に関する『確かなこと』」】での対談(7月22日公開)の中で、統一教会の名称変更問題について、次のように述べています。これは前川氏が引用した2020年の上記のハーバービジネスオンラインの記事とほぼ同じ内容でした。
2015年になって急に名称変更が認められた。その時に僕は知り合いの編集者から連絡があり、永田町で大変な噂になっているよ、と。名称変更に当時文部科学大臣の下村博文さんが文化庁に圧力を掛けた、という噂が駆け巡っているという話を聞いた。
これが仮に事実だとしたら、道義的に問題ですよね。そこから僕は取材を始めて、いろいろ調べていく中で統一教会の関連紙の「世界日報」というメディアがあるのですが、そこの月刊誌「 Viewpoint」という月刊誌がありまして、そこの表紙を下村さんがたびたび飾っていると。
直前2年間で3回ほど、中にインタビュー記事なりが載ったのです。近年、その直前の2年間で3回も載ったのは下村さんだけ。大臣執務室に世界日報の記者、幹部を招き入れた。こういう形でインタビューを録っているわけです。
これはかなり近しいと。そのあと、これは内部情報なのですが、下村博文さんの後援会「博友会」の中に統一教会の信者がいるという情報を得ました。政治資金収支報告書を見ると、翌年2月に世界日報の当時の社長から献金を受けていることが載っていました。
このあたりのことから、永田町で噂になっていることもそれなりの確度がある情報なのかな、ということで一つの情報として置くようにしました。
ただ、そこだけを取り上げるとこれは単なる噂なので。当然文化庁に下村文部科学大臣から圧力が掛かりましたという文書が残っているわけではないので、当然そこは分からないですよね。
下村さんも、当時僕は「週刊朝日」でこのことを追っていた時に取材してもノーコメントで何も返事はしなかったのですが、今回このような騒ぎになって初めて「自分は関与していない」ということをツイートしていたのですが、だからといってそういうことがなかったとは言えない。これは下村さんが圧力を掛けましたと決定事項として出したわけではありませんが、一つの疑惑としておいておくという、材料としてありますと。それだけですね。
前川氏の前記ツイートは、自らが文化庁宗務課長だった1997年の時点で、統一教会の名称変更の動きに対して、「実体が変わらないのに、名称を変えることはできない」と言って認めなかったことを明らかにすることで、2015年に統一教会の名称変更を認めたことの不当性を印象づける一種の「告発」でした。それは、鈴木氏の取材で明らかになっていた統一教会と下村氏との親密な関係と、「文科大臣として、統一教会の名称変更に関与した疑い」を関連づけようとするものだったと考えられます。
この前川氏のツイートに着目して、名称変更の問題を最初に取り上げたのが7月22日の日刊ゲンダイのインタビュー記事でした(《前川喜平・元文科次官が明かす「統一教会」名称変更の裏側【前編】》)。
ここで、前川氏は、1997年の時点での統一教会の名称変更への文化庁宗務課長としての対応について、次のように説明しています。
手続き上の説明をすると、認証の対象は宗教法人の規則です。社団法人などで言えば、定款にあたるもの。宗教法人の規則の中に必ず名称を記さなければならず、名称変更にあたっては規則を改めて認証する必要があるのです。宗務課がどう対応したかは、ツイートした通り。組織の実体が変わっていなければ、規則変更は認証できない。そう判断し、申請を受理しなかったのです。申請を受けて却下したわけではありません。水際で対処したのです。
教団側が名称変更を求めた理由は、「世界基督教統一神霊協会」とは名乗っておらず、「世界平和統一家庭連合」として活動しているから、ということでした。
霊感商法で多くの被害者を出し、損害賠償請求を認める判決も出ていた。青春を返せ裁判などもあった。「世界基督教統一神霊協会」として係争中の裁判もあり、社会的にもその名前で認知され、その名前で活動してきた実態があるのに、手前勝手に名称を変えるわけにはいかない。問題のある宗教法人の名称変更を認めれば、社会的な批判を浴びかねないという意識はありました。
ここで、前川氏は、96年9月に施行された「改正宗教法人法」との関係にも言及し、法改正はオウム真理教による一連の事件を受けた動きで、全国的に活動する宗教法人の所轄庁を文部大臣とし、文化庁が実務を担うことになり、怪しい教団を認証しない考え方へ大きく変化した中で、統一教会が名称変更の認証を求めてきたのことへの文化庁文化部宗務課の対応について説明しています。統一教会は、信者が引き起こした刑事事件はいくつもあり、教団側が敗訴した民事裁判もたくさんあるので、公序良俗に反する宗教法人として解散させることはできないものか、公共の福祉の侵害や宗教法人の目的逸脱などの規定を適用できないものか、内部で検討したが、当時は厳しいとの結論に至ったと述べています。
そして、
こうした経緯からも、統一教会が求める名称変更を文化庁が認証したのは、方針の大転換だったのです。20年近く押し返してきたわけですから。第2次安倍政権下の2015年8月のことで、僕は事務次官に次ぐ文科審議官のポストに就いていました。
と述べて、疑惑の矛先を、2015年の下村文科大臣時代の統一教会の名称変更の認証の方に向けました。
【前編】はここで終わり、前川氏は、25日東京新聞の取材に応じ、26日に、【旧統一教会、19年越しで名称変更のなぞ 下村文科相在任中に突如実現】と題する記事が出され、28日には、ほぼ同じ内容の日刊ゲンダイのインタビュー記事【後編】が出されています。
そこでは、文化庁が統一教会の名称変更を認証したことについて
事前に担当課長の文化部宗務課長が説明に来たことは覚えています。「今まで申請を受理しない方針でやってきたのに、なぜ認証するのか」と聞いたはずなのですが、肝心の理由はよく覚えていない。やらざるを得ない事情があったはずです。
と、当時、担当課長から説明を受けたことを明らかにしています。
そして、下村氏が、統一教会の名称変更について公開した回答(11日付)
《文化庁によれば、「通常、名称変更については、書類が揃い、内容の確認が出来れば、事務的に承認を出す仕組みであり、大臣に伺いを立てることはしていない。今回の事例も最終決裁は、当時の文化部長であり、これは通常通りの手続きをしていた」とのことです》
を引用し、
統一教会に関しては長年維持してきた方針を大きく転換するわけですから、間違いなく大臣まで上げますよ。まず担当課長である宗務課長が上司の文化部長に相談。文化部長にしても自分限りで判断できる内容ではありませんから、次長に上げ、さらに長官に上がり、最終的に大臣にお伺いを立てる。下村さんは了解を与えたと思います。
もっとも、これはボトムアップだった場合の話。何らかの政治的圧力がなければ名称変更の認証には踏み込まないはずですが、その圧力が大臣からかかっていた可能性は十分にあります。
と述べて、この時、文科省が、統一教会の名称変更を認めたのは、政治的圧力によるものであったことを、直接の体験に基づく証言ではありませんが、ほぼ「断言」しています。
そして、7月29日には、毎日新聞でも、【旧統一教会の名称変更、異例の大臣事前報告 文化庁、受理の経緯】と題して、ほぼ同じ内容の記事が出されました。
これらの前川氏の話を内容とする一連の記事によって、統一教会の名称変更時に文科大臣だった下村氏の関与の疑いが強まったことを受け、下村氏は、8月4日、毎日新聞の取材に、旧統一教会の名称変更申請を文化庁が認めたことについて、
「今となれば責任を感じる」
と述べました。一方で、
「当時は名称変更もほとんど報道されなかった。担当者から『受理しなければ(行政上の)不作為として法的に訴えられ、負ける可能性がある』と報告があった」
「政治的圧力や、大臣としてそういうふうにしたということは全くない」
などと述べたとされました。
そして、8月5日には、国会内で、立憲民主党と共産党の「合同ヒアリング」が行われ、前川氏が呼ばれ、統一教会の名称変更の問題について、2015年の日刊ゲンダイ、東京新聞、毎日新聞等で述べた内容の話を行いました。
「加計学園問題」との共通点
このような統一教会の名称変更の問題は、第2次安倍政権時代の「加計学園問題」と構図が極めてよく似ています。
加計学園問題では、2016年、「安倍一強」と言われる安倍内閣への政治権力の集中の中で、安倍首相と親密な関係にある加計孝太郎氏が経営する加計学園の獣医学部新設が認められたことが、国からの不当な優遇だったのではないかが問題とされました。
一方、統一教会の名称変更問題は、統一教会が名称変更の認証申請の話を文部科学省に持ち込んだ1997年以降、文科省が、申請を受理して来なかったのが、2015年、一転して受理され、認証されたことに、文科大臣の意向など政治の圧力が働いていたのではないかが問題とされています。
加計学園問題では、「安倍首相の指示・意向が示された事実があったか否か」について、仮にその事実があったとしても、安倍首相がそれを認めることはあり得ないし、その指示・意向を直接受けた人間がいたとしても、それを肯定することは考えられません。直接的な証拠が得られる可能性はほとんどないに等しいのです。
統一教会の名称変更問題についても、大臣が直接それを指示したか否かということは絶対に当事者でないと分からないことなので、直接的な証拠が出てくる可能性は極めて低いです。
そういう意味で、二つの問題は、「政治家の関与」を主題とする限り「疑惑は疑惑のままで終わる」という点で共通しています。
一方で、2つの問題は、文科省に関連する問題であり、このような「政治家の関与の疑惑」を追及する側で大きな役割を果たしているのが、元文科次官の前川氏であることも共通しています。
しかし、統一教会の名称変更問題について「政治の力が働いた」と断言する前川氏の説明にも、1997年の時点で、名称変更の申請を「水際」で処理したとの説明と、2015年の名称変更の際の政治的圧力について断言していることとの関係など、疑問な点がないわけではありません。
1997年の時点で名称変更の「申請を受理しなかった」のは、受理すると名称変更を認証せざるを得なかったからでしょう。そうだとすれば、2015年の時点でも、申請を受理するかどうかが最大の問題であり、受理してしまえば、文科省側として、名称変更を認めないのは困難だということになり、認証するかどうかに文科大臣の意向が働く余地はありません。
疑問が残るとすれば、それまで、18年間にわたって、名称変更を「水際」で撥ね返されてきた教団側が、2015年には、訴訟をも辞さない態度で申請するような態度に変化したことに、文科大臣などによる「政治的手引き」があったのかどうかです。しかし、この点は、政治家と教団側との関係の問題であり、前川氏自身も、推測する根拠すら持ち合わせていません。
この話を最初に聞いた前記の鈴木エイト氏とのYouTube対談でも、私は、以下のように述べています。
もともと、一定の要件を満たさないから名称変更を認めません、という行政庁側の処分が行われているのなら、判断が行われているのなら、その判断が変わってきたことの理由の説明が必要ですが、そうでなく、「入り口で押さえていた。受理しないように」ということだと、認めていなかった時代も判断が文書になっていないし、形に残っていない。そうすると結局、不透明な形で「認めない」から「認める」にひっくり返った経過は分からないわけですね。これはそれまでのプロセスも含めて、不透明な形であること自体が問題だということかもしれませんね。
いずれにせよ、在任中に取り扱った案件についての対応の中身を明らかにするという、形式上は国家公務員法上の守秘義務違反にもなり得る「告発的意図での発言」という、中央省庁の事務次官の要職にあった者による稀有な行動であるだけに、それが、追及される側の危機対応の混乱を招き、疑惑を一層深める結果になる、という点で、今回の問題と「加計学園問題」とは共通しています。
最大の問題は政権側と野党側の対応の「拙劣さ」
そして、問題なのは、そのような事態において、追及する野党側と追及される与党側のいずれの対応も拙劣で、それが不毛な論争を繰り返すことになり、国民の政治不信を増大させることです。
加計学園問題では、「総理の御意向」についての文書が新聞にリークされたことに対しても、内閣府側の文書・資料を全く示さず、菅官房長官が「法令に基づき適切に対応」と言って文科省の文書についての再調査を拒否し続けるなど、拙劣極まりない対応を続け、内閣への信頼失墜、支持率の急落を招きました。
今回の統一教会の名称変更問題についても、下村氏は、当初、「文化庁によれば、大臣に伺いを立てることはしていない。今回の事例も最終決裁は、当時の文化部長」などと他人事のようなツイートをしましたが、それを前川氏に逆手にとられ、下村氏は、その後、認証の前後に報告を受けていたことを認め、その際、「今となれば責任を感じる」などと、非を認めるかのような発言まですることになりました。それによって疑惑が深まったことは言うまでもありません。
加計学園問題に関しては、規制緩和と行政の対応の問題、国家戦略特区をめぐるコンプライアンスに関する議論など、多くの重要な論点がありました。しかし、実際の野党の追及は、野党合同ヒアリングを開催し、前川氏の証言に依存する「一本足打法」で、国会で、「安倍首相自身の関与・指示があったのではないか」と問い質す不毛な論争を繰り広げました。
このような「政局的」な国会での追及は国民に評価されるはずもありませんでした。安倍政権の対応の拙劣さもあって、マスコミが煽り立てて疑惑が一層高まり内閣支持率は急落しますが、野党の姿勢も、逆に国民からは「批判のための批判」と見られ、批判の受け皿にならず、「支持政党なし」が急増するという異常な状況となりました。
今回の統一教会の名称変更問題についても、立憲民主、共産の合同ヒアリングに前川氏を呼び、文科大臣時代であった下村氏の関与について公開の場で話を聞くなど、加計学園問題と同様の展開になりつつあります。
名称変更の経過からすると、文科省側に、何らかの政権への忖度が働いていた可能性は否定できないし、下村氏の言動からすると、直接関与していたことも考えられないわけではありません。しかし、それらが直接の証拠によって明らかになる可能性が極めて低いことは、加計学園問題での安倍首相の関与の問題と同様です。野党が、そのような追及に拘ることは、加計学園問題と同じ轍を踏むことになりかねません。
このような野党側の姿勢から、政権支持者側が、「統一教会問題」を政治問題化することへの反対の論拠として持ち出しているのが「犯人の思う壺」論なのです。
「統一教会問題」の真相解明と被害救済を
90年代に、霊感商法・合同結婚式等のカルト的活動で、信者の経済的破綻・家庭崩壊等の悲惨な被害を生んできた統一教会という宗教団体が、その後、どのように変化し、今、どのような実態になっているのか、関連団体が「平和連合」などという言葉を使った活動を行っていても、それは、結局のところ、日本人信者がマインドコントロールの下で収奪された資金で大部分が賄われたものではないかなど、旧統一教会に対する疑念は全く払拭されていません。そのような疑念に正面から向き合い、教団の活動の実態を明らかにし、被害の救済に取り組むことが、教団と深い関わり持ってきた自民党の、そして政治全体にとっての最重要課題のはずです。教団側も、本気でコンプライアンスに取り組んでいると言うのであれば、これまでの活動と信者からの献金の実態を自ら明らかにして積極的に協力するのが当然です。
「時の政権や有力政治家の関与」をめぐる国会論争に終始し、政権への疑惑が高まって内閣支持率は低下するが、野党の支持も低迷し、政治全体の不信が高まるという「愚」を繰り返す一方、旧統一教会と信者・被害者の関係についてはこれまでと何も変わらない、というのでは、山上容疑者にとって、全く「思う壺」ではありません。
今も続く信者や信者二世の被害の実態を明らかにし、その救済を図ること、そして、その「統一教会」に政治家がどのように関わってきたかを明らかにし、戦後の政治・社会に纏わりついてきた「負の遺産」を解消することが、安倍元首相殺害事件という誠に不幸な出来事を、本当の意味で社会に活かすことにつながります。それこそが、国民の多数の反対を押し切って「国葬儀」を行うこと以上に、安倍晋三氏という政治家の真の弔いになるのではないでしょうか。
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