自分史・長い物に巻かれない生き方①

少年時代から、東大理学部、三井鉱山を経て司法試験合格までのお話です。長いものに巻かれず、権力と戦う素質は、すでにこの頃から。
郷原信郎 2022.08.05
誰でも

広島での少年時代

私は、島根県松江市に生まれ、1963年、小学校3年生の時に、中国電力に勤務していた父の転勤で広島(現在の広島市佐伯区五日市)に転居しました。

当時は、熱心な広島カープファン少年で、よく父に連れられて、広島市民球場に行きました。

当時、広島カープは「万年最下位」の弱小チームでした。

巨人戦以外では、観客の殆どがカープファンですが、現在のような、お揃いの赤いユニフォームや太鼓やラッパによる秩序だった応援などというものはありませんでした。カープの攻撃で打者が凡退する度に、そして、敵チームの攻撃でカープが失点する度に、ため息とヤジと怒号が飛び交い、グランド内に、物が投げ入れられたり、観客が乱入したりしてゲームが中断することもしばしばでした。

中盤までに失点を重ねると、決まって、カープファン同士の「喧嘩」が始まります。

「今日のカープは、はあ(広島の方言で「もう」という意味)だめじゃあ」

と言う諦めの早いファンと、

「これから、逆転するんじゃ!」

と反発するファンとの間で、言い争いになり、時にはつかみ合いになります。

期待は失望に変わり、さらには味方選手への不満につながる。負け試合では、ヤジの大半は味方選手をヤジり倒すものでした。そういう屈折したカープファンの心理が渦巻く広島市民球場の雰囲気は、何とも殺伐としたものでした。

当時のカープファンは、プロ野球ファンの中では、最も恵まれない存在だったと言えます。それだけに、初優勝は、まさに「悲願」でしたが、それは「夢のまた夢」でした。

当時、絶対的な強さを誇った巨人のV9時代、「プロ野球界の絶対権力者」の巨人に、いつも打ち負かされるカープをなんとかして勝たせたいという思いが、少年時代の私の心の中に、「権威・権力」への対抗意識を芽生えさせたのかもしれません。 

1960年代当時から、広島市やその周辺では、市内の国立・私立の中高一貫校への受験熱が高まっており、私が通っていた五日市小学校でも、5年生位からは、クラスの半分近くが学習塾に通っていました。

私は、母の教育方針で、塾にも行かず、受験もせず、五日市町立五日市中学校に入りました。しかし、その中学校は、校則がやたらと厳しく、頭は「丸刈り」、生活面でもいろいろ厳しいルールがありました。特に、「自転車の2人乗り」は、不良の行動だとされ、厳しい指導の対象になっていました。

2年生の秋、ちょっとした悪ふざけで、友人2人と「自転車の3人乗り」をしていたところを、たまたま通りがかった生活指導担当の教師に見つかってしまいました。翌日、学年集会が開かれ、自転車に3人乗りをしていた生徒がいたことについて厳しい指導がありました。

その程度のことで学年集会を開くという、あまりに馬鹿げた話に呆れ果て、「学校という権力」に対して反発を覚えたことは言うまでもありません。

1969年3月、私は、父の転勤に伴って、広島から島根県松江市に転居することになり、松江市立第三中学校に転校しました。五日市中学での「丸刈り」からも、厳しい校則からも、解放されました。

高校2年、ドラマ「天下御免」に刺激され「自由」に憧れる

中学校3年から高校までの4年間は、松江市で暮らしました。当時、松江市内に2つしかなかった県立普通高校の一つ、松江南高校理数科に入学しました。社会の動きに関心を持つわけでもなく、将来のことを深く考えることもない、「田舎の高校生」でした。

そういう私を大きく変えたのが、高校2年の秋から始まった、ドラマ「天下御免」(NHK)でした。主人公・平賀源内が、郷里の高松から船で大海原へと旅立つシーンで、

『この箱庭のような狭い世界から抜け出す!』

というセリフに、私も「自由への思い」をかき立てられました。

それから、そのドラマは毎週欠かさず見て、平賀源内の自由な生き方に憧れ、その頃から大学受験のための勉強にも熱を入れるようになり、現役で東大理科2類に合格しました。

その時、自分が将来何をやりたい、ということが全く定まっていなかった私にとって、入学の時点で学部を確定させなくてもよいことが、東京大学の大きなメリットでした。

しかし、私が入学した1973年当時の東京大学は、大学紛争の影響も残っていて、カリキュラムや教育の場としての環境が整備されていたとは言い難い状況でした。地方の高校出身者にとっては、講義についていくこと、単位をとることがやっとで、将来の夢や目的意識を持つ余裕もないまま、消去法的に進学先として選んだのが、理学部の「地学科地質学鉱物学課程」でした(現在は、地球惑星物理学科に統合されています。)。

教授の紹介で三井鉱山に就職

オイルショック後の不況で極度の就職難だった1977年、講座の担当教授に紹介してもらって、「三井鉱山」という会社に入社しました。

三井鉱山は、戦前から昭和20年代までは、三井財閥の中核企業としての歴史を持つ会社でした。しかし、昭和30年代には、石炭が石油に代替されて急速に斜陽化し、三池労働争議・三池炭鉱事故などで会社の経営は一層悪化、当時、国内に残っていた三池炭鉱など3つの炭鉱で石炭生産を続けていたものの、国からの石炭の生産量に応じた助成でようやく事業を継続している状況でした。

社内には、旧財閥系の企業にありがちな官僚主義・権威主義がはびこっていました。また、地質技術者の部門も、徒弟制度的な「地質屋」の窮屈な世界でした。

年配の先輩社員の中には、

「昭和20年代は、スエズ運河より東で最も高給を得ていたのは三井鉱山の社長だった。27年には東大・京大出身の新卒が100人を超えていた」

などと言って、「過去の栄光」を引きずっている人もいました。

私は、国の石炭政策に寄生しているような会社の実態と、組織の体質に違和感を覚えました。

「そのような会社に一生身を置くのか」と考えると絶望的な思いにかられました。「何とかして会社を辞めたい」と思い始めたのは、入社した年の夏頃でした。

しかし、会社を辞めれば、紹介してくれた教授の顔に泥を塗ることになります。「地質屋」の世界で生きていくことはとてもできません。

「東大卒」という何の役にも立たない学歴だけの全くの素浪人になって、ゼロから出直すしかありませんでした。

司法試験受験を考えたきっかけ

その私が、司法試験の受験ということを考えたきっかけは、入社した1977年の秋に北海道の砂川炭鉱の近くの山中で炭層の地質調査をしていた時、先輩が半分冗談で言った言葉でした。

炭層調査は、山中に連続的に地層を露出させるトレンチ(地層の断面を見るための溝)を掘って、周辺の地層を調べるというやり方をとっていました。

作業員によるトレンチ堀りの作業を待っている間に、先輩が、

「山の中を掘り返すので営林署がうるさいことを言ってくることがあるが、そういう時は、役人に鼻ぐすりを聞かせておけばいいんだ」

というような「冗談」を言いました。(営林署:林野庁が所管する国有林の管理・経営にあたった役所で、平成11年林野庁の組織改変に伴って廃止され、森林管理署に改組。)

それを聞いて、私は、

「その鼻ぐすりというのがワイロというもので、法律に違反することなんだろうな」

と思いました。そして、

「『法律に違反すること』を問題にしたり、罰したりする世界があるんだろうな」

ということが頭に浮かびました。その頃は、「地質屋」の世界に入ったことを後悔し始めていた時だったので、

「今の地質屋の仕事より、そういう法律の世界で仕事ができたら面白いだろうな」

と漠然と思いました。

私は、その次の休みの日に、札幌に出て、本屋で法律の世界のことについて調べてみました。そこで、「司法試験というとてつもなく難しい試験があって、それに合格したら、裁判官、検察官、弁護士になれる」ということ、そして、その司法試験の受験資格が自分にもあることを知りました。

当時は、今のように、司法試験の受験資格が、「法科大学院修了者・予備試験合格者」に限定されているのではなく、大学の教養課程を修了してさえいれば、誰にでも受験資格がありました。

最難関と言われる司法試験に合格すれば、せっかく就職した会社を短期間で辞めたことも、大学での専門分野の地質を捨てたことも、すべてチャラになり、社会人として再スタートを切ることができる、と思いました。

しかし、それまで法律については、大学の教養課程で「法律概論」を受講しただけでした。当時の司法試験は、合格率2パーセント以下、法学部を出ても5年程度受験勉強に専念してようやく合格できる試験でした。

私は、法律の世界が自分に向いているのかどうか、まず確かめてみようと思いました。

10月に北海道での地質調査の出張が終わり、東京に戻ると、憲法・民法・刑法の入門書を読んでみました。

「法律の論理」というのは、新鮮でした。「論理的思考」には、それまで長年使っていなかった脳の一部を働かせる実感がありました。少なくとも、「地質屋」より「法律屋」の方が自分に向いているように思えました。

それから間もなく、九州の大牟田市の三池有明鉱業所に、翌年春までの長期出張を命じられました。

炭鉱の坑内で地質調査を行う仕事が中心でした。大牟田に出張している期間も、私は、勤務時間外の夜や休日に、憲法・民法・刑法の基本書を読んで、法律学の基礎の勉強を続けました。

「国の石炭政策に寄生する企業」に失望

この大牟田出張の間に、私は、当時の「三井鉱山」という会社の経営が、国の石炭政策で支えられているのに、実は、石炭の生産の事業で政策の趣旨に沿わないことが行われているという、事業の実態を知ることになりました。

炭鉱の地質屋は、採炭の状況、将来の採炭の計画などの事業の全体像がわかります。

三池・有明炭鉱は、大牟田市から有明海に向けての海底に、緩傾斜の豊富な炭層が拡がる、日本でも特別の優良な海底炭鉱でした。

しかし、その優良炭鉱も、三井鉱山の収益のために、どんどん深部に向けて採炭が進められ、可採埋蔵量が急激に減少していました。

年間の石炭産出量に応じて国から助成金が出るので、出炭量を最大にするために、シールド枠とレンジングドラムカッターという最新鋭の機械を使って採炭が行われていました。

そういう方式で採炭するためには、炭層の厚さ等に制約があります。普通の採炭方法であれば採炭する炭層も、機械化採炭の条件に合わなければ、採炭の対象から外してしまうのです。

結局、理論可採埋蔵炭量のうち、実際に採炭する量は17%程度でした。採炭の終わった区域は、埋め戻しもせずそのまま放置するので、結局、水没してしまい、石炭を捨ててしまうことになっていました。

石炭産業保護のための膨大な補助金は、本来、国内での唯一のエネルギー資源である石炭生産を保護して、国としてのエネルギーの最低限の自立を図る目的で支給されていたはずです。ところが、実際、国内随一の優良炭鉱の石炭資源を無駄にして、私企業が収益を得ることになっていたのです。

三井鉱業所の幹部も、「三井財閥の中核会社だった」というプライドの上にあぐらをかいているだけで、補助金を受けている企業としての責任感のようなものは見られませんでした。

このような三池有明炭鉱の実情に接したことで、私は、国の石炭政策に寄生しているような会社の実態に、心の底から失望しました。

「このような会社に居続けることはできない。少しでも早く会社を辞めたい」

と思いました。私にとっては、会社を辞めて「地質屋」から「法律屋」への転身を図ることに、自分なりの「大義」が付け加わることになりました。

1978年4月、東京に戻ってからの私は、引き続き、夜や休日に法律書を読んで勉強を続ける一方、会社を辞めて司法試験の受験勉強をすることについて、広島の実家の両親に説明して理解を得ることに努めました。

最初は、私が、「三井鉱山という会社の体質への不満」というような青臭いことを理由に会社を辞めたいと言い出したことで強く反対していた父も、私が、「今、若くてパワーがあるうちに、最も困難な目標に立ち向かいたい」という真剣な姿勢を見せたことで理解を示してくれ、私の決断に協力してくれることになりました。

独学で司法試験を受験、2年目に最終合格できた理由

1978年10月末で退職し、広島市の両親の下で受験浪人生活を始めました。

法学部以外の学部の人間が司法試験をめざすのであれば、法学部に学士入学するか、受験予備校に通うのが通常のようでしたが、私は、「法律の基本書と過去の試験問題だけの独学での受験」という方法を選びました。

まず、憲法・民法・刑法の3科目だけの短答式試験に照準を合わせて取り組みました。翌年5月に合格。その翌年に論文式の試験と、口述式の試験にも合格し、受験浪人生活は2年足らずで終わりました。

法学部も出ていないのに、約2年の独学での合格というのは、最短での合格でした。なぜ、そのように短期間で合格できたのか。

その大きな要因は、独学だったために、法学部生や司法試験受験生の「群れ」の中に身を置かなかったことではないかと思います。 「司法試験に関する常識」を理解している人が回りにいなかったので、自分が目指していることが、無謀であること、常識はずれであることを認識させられることが、あまりなかったということが言えます。

そのことに関して、今でもよく覚えている一つのエピソードがあります。

大学の教養課程の同クラスの友人で、理系から法学部に進学して東京銀行に就職したA君がいました。私としては、もう会社を辞めて司法試験を受験することは決めていたのですが、それについて、法律の世界に詳しい彼に相談に乗ってもらおうと思って会ったのです。

当時、理系から法学部に進学するのには、教養での成績がかなり良くなければ無理でした。彼は非常にまじめで成績がよかった。就職活動の時も、当時、オイルショック後の不況で就職氷河期と言われた時代でしたが、彼は真面目に就活に取り組み、希望通り東京銀行に入ったのです。その頃、就職のこともあまり考えないで遊んでいた私に、A君が呆れた顔で「お前な、慶応じゃ、自殺者まで出てんだぞ」と言っていました。結局、気楽に教授の紹介で就職をした私は、早々に行き詰り、すぐに会社を辞めることになったわけです。

私の方から、司法試験をめざそうと思った経緯についていろいろ話をしたところ、黙って聞いていたA君は、

「で、郷原、今、いったいいくら貯金があるんだ?」

と聞いてきました。私は、司法試験をめざすのは並大抵のことではないから、受験勉強をする間の十分な生活資金がないと難しいということで、私の預金残高を聞いているのだと思いました。

私が

「30万くらいかな」

と答えると、急に眼の色が変わり、真剣な顔になって言いました。

「ウチの銀行にさあ、ワリトーっていう利回りのいい商品があるんだけど、どう?その30万」

こっちが人生の一大決心をしようとして相談をしているのに、彼の頭の中は、自分の銀行の商品を売ってノルマを達成することしかない、ということに私は愕然としました。

しかし、その時のA君の立場にたって考えてみると、そもそも、私の話があまりに荒唐無稽で、まともに取り合う必要もないものだったことは確かです。真面目に勉強していたA君ですら容易ではないと思って受験を諦めた司法試験を、大学時代ろくに勉強もせずに遊んでいた私が会社を辞めてまでめざそうとすること自体が、凡そ理解できない、ついていけないと思うのも、無理はありません。

確かに、あまりに無謀な挑戦でした。しかし、周りに司法試験のこと、法曹の世界のことを詳しく知る人もおらず、私は、その無謀さを十分に認識することなく、自分勝手に「何とかなるだろう」と思い込んで、司法試験受験浪人の世界に入りました。それが、メンタル面では、かえってよかったということが言えると思います。

もちろん、私も、法学部卒の受験生にとって一般的・常識的な勉強方法をやっても、合格までに相当な年月がかかるであろうことはわかっていました。私は、自分の性格から考えて、司法試験受験浪人を続けるとしてもせいぜい3年、それ以上は根気が続かないだろうと思っていました。そういう私にとって、他の受験生とは違う独自の方法で臨むしかありませんでした。

司法試験の中で一般的に最もハードルが高いのが論文式試験です。私は、「法律の基本原理」と「条文の趣旨」から論理的に結論を導く、という方法を徹底しました。

どの法律科目にも、判例・学説等が山のようにあり、それを一つひとつ覚え込んで論文答案に書こうとすれば、それを覚え込むだけで膨大な時間がかかります。

それより、「法律の基本原理」と「条文の趣旨」を持ち出して、「そもそも~」という書き方で結論を導いていけば、その法律の基本を理解していると評価してもらえるのではないか。それを、自分なりに、「しっかりバックスイング(基本に戻る)をして」、「確実にミート(論文試験の事案に当てはめる)する」「基本に忠実なバットスイング」が最も合理的な方法だと自分に言い聞かせていました。

こういう勉強方法・試験対策を、自分の頭の中で作り上げ、短期で合格してそのノウハウを受験生に教える姿を思い描きながら勉強していました。「念ずれば通ず」という言葉にもあるように、自分が目標としていることが実現しているイメージを持ち続けることが、実現の可能性を高めると言えるのではないかと思います。

この時の「法律の基本原理」と「条文の趣旨」から論理を展開するというやり方は、法律の世界に向けての私の基本的姿勢として、その後も続けていきました。

私が出した新書のなかでベストセラーとなった『法令遵守が日本を滅ぼす』(新潮新書2007)などで強調してきた

「コンプライアンスとは、法令遵守ではなく、法律の背後にある“社会の要請”に答えること」

という考え方の原点も、ここにあったと言ってよいのかもしれません。

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