袴田事件「再審開始決定」に対して、検察は特別抗告を断念!

戦後の刑事司法の歴史に残る重要事件になりました。まず、【「組織的証拠捏造」可能性認める袴田事件“再審開始決定”、検察の特別抗告は許されない】をじっくりお読みください。
郷原信郎 2023.03.21
誰でも

袴田事件の東京高裁の再審開始決定に対する特別抗告の期限だった昨日(3月20日)、Yahoo!ニュース個人、ブログ「郷原信郎が斬る」などに論考をアップし、過去に証拠改ざんや「組織的な供述捏造」などを繰り返してきた検察には、「捜査機関の組織的捏造」の可能性が高いとした今回の高裁再審開始決定ことに対して特別抗告することは許されない、と述べました。

正直なところ、従来の検察の姿勢からは、それでも、特別抗告する可能性が高いと思っていましたが、予想に反して、検察は特別抗告を断念しました。

検察に何があったのか、知りたいところです。

今後、再審が開始されますが、ここで、検察は、再審での有罪立証を断念するのか、というもう一つの問題があります。

それは、今後の再審をめぐる法改正の議論にもつながるものになります。

まず、以下の【「組織的証拠捏造」可能性認める袴田事件“再審開始決定”、検察の特別抗告は許されない】をじっくりお読み頂きたいと思います。

***

3月13日、袴田事件で、東京高裁(大善文男裁判長)で再審開始決定が出されました(以下「大善決定」)。捜査機関によって、確定判決で有罪の決め手の一つとされた証拠について「捏造された可能性が極めて高い」との判断まで示されました。検察は、法的には特別抗告を行うことが可能です(期間は、決定の翌日から5日、土日を挟んで20日が期限)。

しかし、死刑判決の確定から43年、静岡地裁の再審開始決定からも9年を経過しており、87歳という袴田氏の年齢、健康状態を考えれば、これ以上の審理の遅延は、到底許容し難いことです。検察は特別抗告を行う方針と報じられていますが、袴田氏の冤罪救済を求める支援者のみならず、社会全体からも、特別抗告を断念し、一日も早く再審を開始するよう求める声が検察に押し寄せています。

以下に述べるような再審請求審の経過と実質的な争点を考えれば、大善決定に対する検察の特別抗告は許されるものではありません。

静岡地裁の再審開始決定

確定した有罪判決に対して裁判のやり直しを求める再審が開始される要件には様々なものがありますが、その多くは、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見した」(刑訴法435条6号)と認められた場合、つまり新規性、明白性を充たす証拠とされた場合です。

2014年3月に、静岡地裁(村山浩昭裁判長、以下、「村山決定」)で再審開始決定が出されましたが、そこで、「明らかな証拠」とされたのは、以下の2つでした。

  •  (1)袴田氏が逮捕・起訴され公判審理が行われていた最中に味噌樽の底から発見され、袴田氏が犯人であることを裏付ける有力な証拠とされている5点の衣類や被害者が着用していた着衣等から血液細胞を他の細胞から分離して抽出する「細胞選択的抽出法」を実施した上で、採取した試料のDNA鑑定を行った結果、袴田氏のDNA型とは一致しないという本田克也筑波大学教授のDNA鑑定(以下、「本田鑑定」)

  •  (2) 5点の衣類には付着した血痕の色の赤みが残っていたとされるが、1年以上味噌に浸かっていたとは考えられないことを実験によって証明したとする「味噌漬け実験報告書」

村山決定は、(1)(2)が、いずれも、新規性、明白性を充たす証拠だとして、再審開始を決定しましたが、その最大の根拠とされた(1)の本田鑑定には、後述するように、科学的鑑定と評価できない杜撰なものだという批判があり、その信用性に大きな疑問がありました。

地裁での再審開始決定に対しては、ほとんど例外なく、検察は即時抗告を行い、高裁で決定が取り消されることも多いのです。それまでは、死刑の確定判決に対する再審開始が地裁で決定されても、死刑の執行が停止されるだけで、その前提となる勾留まで停止することはありませんでした。しかし、村山決定は、地裁段階の再審開始決定で死刑囚の釈放を命じるという異例の措置をとりました。

釈放された袴田氏は、自由の身となって支援者・家族の元に戻りました。釈放された死刑囚が公の場に姿を現わせば、その映像的な効果によって、社会全体が袴田氏の「冤罪」「無実」が確定的になったと認識することになり、その後、再審開始決定が取り消され、袴田氏が収監された場合、「無実の人間を強引に収監して死刑を執行しようとする無慈悲な刑事司法」と受け止められ、強烈な反発が生じることは必至でした。

東京高裁決定による再審開始決定取消

これに対して、検察官が即時抗告し、3年半にわたる審理の末、東京高裁(大島隆明裁判長、以下、「大島決定」)は、(1)(2)は、いずれも「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」には当たらないとして、再審開始決定を取消し、再審請求を棄却しました。

大島決定は、(1)については、その根拠となった本田鑑定に対して、以下のように述べて、信用性を否定しました。

本田氏の細胞選択的抽出法の科学的原理や有用性には深刻な疑問が存在しているにもかかわらず、原決定は細胞選択的抽出法を過大評価しているほか、原決定が前提とした外来DNAの残存可能性に関する科学的原理の理解も誤っている上、平成23年12月20日付けの本田鑑定書添付のチャート図の解釈にも種々の疑問があり、これらの点を理由として本田鑑定を信用できるとした原決定の判断は不合理なものであって是認できず、本田鑑定で検出したアリルを血液由来のものとして、袴田のアリルと矛盾するとした結果も信用できず、本田鑑定は、袴田の犯人性を認定した確定判決の認定に合理的な疑いを生じさせるような明白性が認められる証拠とはいえない

と判断しました。

(2)については、

5点の衣類の各写真は、写真自体の劣化や、撮影時の露光といった問題があり、発見当時の色合いが正確に再現されていないのであるから、色合いを比較対照する資料とはなり得ないものである上、前記各みそ漬け実験で用いられたみそは、5点の衣類が発見された1号タンク内にあったみその色合いを正確に再現したものとはいえないのであるから、みそ漬け実験報告書等を刑訴法435条6号にいう明白性がある証拠と判断した原決定は不合理なものといわざるを得ない。

として村山決定の判断を覆しました。

5点の衣類が、その血痕の色等から、袴田氏が、犯行後に味噌樽の底に隠したものではないとすると、他の者が、味噌樽の底に入れたことになり、それを行うとすれば警察の可能性が高いということになります。それについて、村山決定では「警察は、人権を顧みることなく、袴田を犯人として厳しく追及する姿勢が顕著であるから、5点の衣類のねつ造が行われたとしても特段不自然とはいえず、公判において袴田が否認に転じたことを受けて、新たに証拠を作り上げたとしても、全く想像できないことではなく、もはや可能性としては否定できない。」としましたが、大島決定は、次のように述べてその可能性を否定しました。

自白追及の厳しさと証拠のねつ造の可能性を結び付けるのは、相当とはいえない。これまでしばしば刑事裁判で自白の任意性が問題となってきたように、否認している被疑者に対して厳しく自白を迫ることは往々にしてあることであって、それが、捜査手法として許される範囲を超えるようなことがあったとしても、他にねつ造をしたことをうかがわせるような具体的な根拠もないのに、そのような被疑者の取調方法を用いる捜査当局は、それ自体犯罪行為となるような証拠のねつ造をも行う傾向があるなどということはできず、そのような経験則があるとも認め難い。しかも、そのねつ造したとされる証拠が、捜査当局が押し付けたと主張されている自白のストーリーにはそぐわないものであれば、なおさらである。

最高裁決定による差戻し

東京高裁の即時抗告審で、静岡地裁の再審開始決定が取り消されたことに対しては、袴田氏の冤罪救済を求め、支援する人達からは強い反発と批判の声が上がりました。

弁護人が、最高裁に特別抗告したところ、2020年12月、最高裁は大島決定を取消し、同高裁に差し戻しました。

この最高裁決定は、(1)について、村山決定は本田鑑定の証拠価値の評価を誤った違法があるとした前高裁決定は、結論において正当であるとして大島決定を支持し、(2)についても、

前高裁決定は、みそ漬けされた血液の色調に影響を及ぼす要因、とりわけみそによって生じる血液のメイラード反応に関する専門的知見について審理を尽くすことなく、メイラード反応の影響が小さいものと評価した誤りがあるとし、このことは5点の衣類に付着した血痕に赤みが全く残らないはずであるとは認められないとの前高裁決定の判断に影響を及ぼした可能性があり、審理不尽の違法があるといわざるを得ず、その違法が決定に影響を及ぼすことは明らかであり、前高裁決定を取り消さなければ著しく正義に反する

としました。

最高裁は、大島決定が村山決定を否定して、再審決定を取消した判断の大部分を支持しましたが、「メイラード反応の影響」という一点についてだけ、大島決定の審理不尽を指摘して、東京高裁に差し戻したものでした。

こうして、東京高裁に差し戻された袴田氏の再審請求について、審理が尽くされた末に、出された決定が、2023年3月13日に出された今回の決定でした。

大善決定は、

原審で提出されたみそ漬け実験報告書は、中西実験に加えて、みそ漬けされた血痕の色調の変化に影響を及ぼす要因について当審で取り調べた前記各専門的知見等によって裏付けられることによって、1年以上みそ漬けされた5点の衣類の血痕には赤みが残らないことを認定できる新証拠といえるのであり、前記の各証拠と総合すれば、1号タンクから発見された5点の衣類に付着した血痕の色調に赤みが残っていたことは、5点の衣類が昭和41年7月20日以前に1号タンクに入れられて1年以上みそ漬けされていたとの確定判決が認定した事実に合理的な疑いを生じさせることになる。

とし、新旧証拠を総合評価した上で、

5点の衣類が1年以上みそ漬けされていたことに合理的な疑いが生じており、5点の衣類については、事件から相当期間経過した後に、袴田以外の第三者が1号タンク内に隠匿してみそ漬けにした可能性が否定できず(この第三者には捜査機関も含まれ、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高いと思われる。)、袴田の犯人性の認定に重大な影響を及ぼす以上、到底袴田を本件の犯人と認定することはできず、それ以外の旧証拠で袴田の犯人性を認定できるものは見当たらない。

として、静岡地裁の再審開始決定に対する検察官の即時抗告を棄却し、袴田氏に対する再審開始を決定しました。

以上が、これまでの袴田氏の再審請求審の審理の経過です。

静岡地裁の再審開始決定が出された当初、最大の争点だったのは、前記(1)の本田鑑定が科学的鑑定として評価できるかでした。

本田鑑定は、「細胞選択的抽出法」によって、「50年前に衣類に付着した血痕からDNAが抽出できた」というもので、もし、それが科学的手法として確立されれば、大昔の事件についてもDNA鑑定で犯人性の有無の決定的な証拠を得ることを可能にするもので、刑事司法の世界に大きなインパクトを与える画期的なものでした。しかし、そのような方法によって「DNAが抽出できた」というのであれば、その抽出の事実を客観的に明らかにするデータが提示される必要がありますが、鑑定の資料の「チャート図」の元となるデータや、実験ノートの提出の求めに対し、血液型DNAや予備実験に関するデータ等は、地裁決定の前の時点で、「見当たらない」又は「削除した」と回答するなど、実験結果の再現性に重大な問題がありました。

本田鑑定は、科学的鑑定と評価できない杜撰なものであり、前記(1)について、それを根拠に再審開始を決定した静岡地裁の判断は不合理でした(【袴田事件再審開始の根拠とされた“本田鑑定”と「STAP細胞」との共通性】。大島決定が、村山決定は本田鑑定の証拠価値の評価を誤った違法があるとして本田鑑定の信用性を否定し、その判断を最高裁も支持したのは当然でした。 

実質的な争点は「捜査機関による組織的証拠捏造」の可能性

本田鑑定に代わって、大島決定に対する特別抗告審以降、再審請求の争点になったのが、前記(2)の「味噌漬け実験報告書」でした。

「5点の衣類には付着した血痕の色の赤みが残っており、それが1年以上味噌に浸かっていたとは考えられないこと」が科学的に証明できるかどうかが、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとき」と認められるか、をめぐって、実験や多くの証人尋問が行われました。

弁護側の主張は、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」という客観的事実から「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という事実が導かれ、それが、「袴田氏が犯行の際に着用していた着衣」という証拠を消失させ、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」になるとの主張でした。

これに関して、最高裁決定で、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」を科学的に明らかにすることが求められた大善決定では、その点について徹底して審理し、「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という認定にたどり着きました。

しかし、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色」というのは、50年以上前のことであり、それを厳密に客観的に再現することができるわけではありません。結局のところ、どちらの結論を導こうとするかによって、その「科学的な推定」の中身が左右されることは否定し難いのです。

そういう意味では、「警察による組織的な証拠の捏造が行われた可能性」についてどう考えるかが実質的に重要であり、その点こそが、大島決定と大善決定とで判断が分かれた決定的な要因だったと見るべきでしょう。

大島決定は、当時の警察が、仮に、袴田氏を有罪にするためにあらゆる手段を使おうとしていたとしても、無関係の衣類を袴田氏の着衣のように偽って、味噌樽の中から発見するという行為は、「過酷な取調べの末に得られていた袴田氏の自白とは全く矛盾する証拠を、発覚のリスクを冒して敢えてねつ造する」という、全く合理的ではない行動を警察組織が行ったことになるので、このような「証拠のねつ造」を疑うことは、警察がいかに人権を無視した過酷な取調べを行っていたとしても困難だとして、村山決定が認めた証拠捏造の可能性を否定するものでした。

冤罪事件や再審の歴史は、警察や検察による証拠の「隠ぺい」の歴史だったと言っても過言ではないほど、過去の多くの事件で、不当に証拠が隠されていたことが、真相解明を妨げてきました。また、警察でも証拠の改ざんが刑事事件に発展した事例も過去に発生しています。検察においても、現に、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件という「改ざん」事件が発生しており、警察や検察による「証拠に関する不正」が行われる抽象的な可能性があることは、否定できるものではありません。

しかし、日々発生する膨大な刑事事件の摘発・捜査・処分が、現場の警察官・検察官によって行われ、その職務執行が基本的に信頼されることで刑事司法が維持されているのであり、それら全体に対して、常に証拠に関する不正を疑うことはできず、疑うのであれば、相応の根拠がなければなりません。しかも、この袴田事件では、逆に、捜査機関の証拠捏造があったとすると「袴田氏の自白と矛盾する」ことになり不合理だ、というのが大島決定の考え方です。

それは、従来の刑事裁判所の一般的な考え方とも言えるでしょう。袴田事件の当初の裁判の過程では、味噌樽の中から発見された衣類を実際に袴田氏に着用させる実験を行った結果、サイズが合わず、着用させることができなかった、という袴田氏の犯人性に重大な疑問を生じさせる事実も出てきましたが、それでも、控訴審も、最高裁も有罪の判断を変えませんでした。その最大の理由は、大島決定と同様の理由から「警察による組織的な証拠捏造の可能性」が否定される、ということだったものと思われます。

ところが、大善決定は、5点の衣類については、事件から相当期間経過した後に、袴田以外の第三者が1号タンク内に隠匿してみそ漬けにした可能性が否定できないとし、これについて「この第三者には捜査機関も含まれ、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高いと思われる。」との判断まで示しました。

大善決定の前提には、「捜査機関による組織的な証拠の捏造」の可能性も否定できないという見方があったものと考えられます。だからこそ、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」についての客観的な面からの審理を重ね、「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という結論を導いたのであり、大善決定の大島決定との決定的な相違は、「捜査機関による組織的な証拠の捏造」の可能性を肯定した点にあるというべきでしょう。

大善裁判長が「断罪」した東京地検特捜部の虚偽捜査報告書による検察審査会誘導

では、なぜ、大善決定は、大島決定とは異なり、従来の裁判所の一般的な見方に反して、「捜査機関による組織的な証拠の捏造」の可能性を認めたのでしょうか。

大善裁判長には、「検察の組織的な証拠の捏造」が疑われた事案に対して、判決で、検察に厳しい指摘を行った経験があります。

陸山会をめぐる政治資金規正法違反事件で、小沢一郎氏が検察審査会の起訴議決によって起訴されました。その東京地裁の一審の審理の中で、石川知裕氏(当時衆議院議員)の取調べ内容に関して、石川氏が小沢氏との共謀を否定しているのに、特捜部所属の検事が、それを認めているかのような事実に反するように記載した捜査報告書を作成し、それを特捜部が検察審査会に提出したことで、検察審査会の議決を誘導した疑いが表面化しました。

この事件で一審を担当したのが大善裁判長だったのです。2012年4月に東京地裁で出された小沢氏に対する一審判決では、

「事実に反する捜査報告書の作成や検察審査会への送付によって検察審査会の判断を誤らせることは決して許されない」
「事実に反する内容の捜査報告書が作成された理由、経緯等の詳細や原因の究明等については、検察庁等において、十分調査等の上で、対応されることが相当」

などと、異例の厳しい指摘が行われました。

2012年6月27日、最高検察庁は、虚偽有印公文書作成罪で告発されていた担当検事、特捜部長(当時)など全員を「不起訴」としましたが、2013年4月22日、東京第一検察審査会は、担当検事に対して「不起訴不当」の議決を出しました。議決書は、

「虚偽有印公文書を作成するにつき故意がなかったとする不起訴裁定書の理由には十分納得がいかず、むしろ捜査が不十分であるか、殊更不起訴にするがために故意がないとしているとさえ見られるので、以上に指摘した点を踏まえて、本件についての不起訴処分は、不当であると判断し、より謙虚に、更なる捜査を遂げるべきであると考える。」

と検察の不起訴処分を厳しく批判しました。

大善裁判長は、小沢氏に対する一審判決で、検察の「組織的な供述捏造」の疑いが強いと判断し、

「事実に反する内容の捜査報告書が作成された理由、経緯等の詳細や原因の究明等については、検察庁等において、十分調査等の上で、対応されることが相当」

と指摘しました。しかし、その後の検察の対応は、最高検が行った調査結果の報告書を公表したものの、その内容は全く不合理で、凡そ説明になっていないものでした。東京地検特捜部が組織的に捜査報告書での供述の捏造を行った疑いは全く払拭されませんでした(【検察崩壊 失われた正義】)。検察の対応は、「組織的な供述捏造と検察審査会騙し」を疑った大善裁判長の指摘に応えるものでは全くなかったのです。

そういう意味で、「警察・検察による組織的な証拠捏造」は、それを疑う具体的な証拠がなければ可能性は否定される、という従来の刑事裁判所の一般的な経験則が、大善裁判長には通用しなかったのです。

当時の東京地検特捜部の「組織的行動」は、政権交代の可能性が高まっていた時期に、野党第一党の代表だった小沢一郎氏の秘書を犯罪性の希薄な政治資金規正法違反で逮捕・起訴し、政権交代後は、強引な捜査で小沢氏本人を政治資金規正法違反で起訴しようとしたものの、検察上層部の了解が得られずに不起訴に終わり、何とかして小沢氏の政治生命を奪おうと、組織的に供述を捏造した捜査報告書を作成し、検察審査会に提出して強制起訴に持ち込んだ、というものだった疑いが強いのです。

21世紀に入り、裁判員制度も導入されるなど、日本の刑事司法に大きな変革が訪れている時期にそのような「捜査機関による組織的証拠の捏造」が行われたのだとすると、半世紀以上昔、拷問的な取調べや不当な捜査による冤罪が少なくなかった時期の袴田事件での警察が、人権を無視した強引な取調べで自白に追い込んで袴田氏の起訴に至ったものの、自白調書の大部分は任意性が否定されて裁判で採用されず、さしたる裏付け証拠もない、という状況に追い込まれ、起死回生を図って5点の衣類を味噌樽の底に入れる「組織的証拠捏造」を行った可能性が、「経験則上あり得ない」と言えるでしょうか。

「過酷な取調べの末に得られていた袴田氏の自白とは全く矛盾する証拠を、発覚のリスクを冒して敢えてねつ造する」という全く合理的ではない行動を警察組織が行ったことになる、との大島決定の指摘も、警察の悪意の程度によっては「組織的証拠捏造」を否定する理由にはなりません。

当時の警察は、人権を無視した拷問的な取調べで得た袴田氏の自白を、果たして「真実」だと思っていたのでしょうか。袴田氏を犯人だと決めつけて逮捕した以上、いかなる手段を用いてでも、起訴・有罪判決に持ち込む、ということが警察組織にとって至上命題だったとすれば、それによって袴田氏から得た自白が「真実」との認識すらなかったのではないでしょうか。警察にとっては、袴田氏が「自白」した後も、それは、単に「自白調書を得た」というだけで、袴田氏の事件は依然として「否認事件」であるように認識していたのではないでしょうか。そうだとすれば、警察が、袴田氏が犯行時に着用していた衣類という証拠を捏造してそれを味噌樽の底に入れるという「組織的な証拠捏造」を行うことは、それが発見されることで袴田氏を有罪に追い込み、「誤認逮捕の汚名」から免れることができる合理的な行動とみる余地もあります。

石川氏が小沢氏との共謀を認めているかのような事実に反する捜査報告書を検察審査会への提出証拠に紛れ込ませ、それが功を奏して検察審査会は小沢氏に対して起訴議決を行い、小沢氏は幹事長辞任に追い込まれて事実上政治生命を失いました。石川氏の取調べの開始時に、担当検事は、「録音機を持っていないか」と執拗に質問しましたが、石川氏はそれを上手くごまかして秘密録音し、それが、虚偽捜査報告書による供述の捏造という前代未聞の検察不祥事の発覚につながりました。特捜部にとっては、秘密録音が防止できなかったことが大誤算でした。

袴田事件でも、警察が組織的に証拠捏造を行ったとしても、そのようなことが行われるなどと刑事裁判官が疑うこともないし、その証拠が決定的な証拠となって袴田氏の有罪判決は確定し、死刑が執行されて、証拠捏造は歴史の闇に消えるだろうということを目論んでいたのかもしれません。味噌樽に沈められた衣類の変色の程度、という鑑定で、証拠の捏造の可能性が明らかになるとは思いもよらなかったのでしょう。

このように、当事者の立場に立って考えると、「捜査機関による組織的証拠捏造」も決してその可能性を認めることが不合理とは言えないのです。

大善決定は、大島決定のような理由で「警察の組織的証拠捏造」の可能性を否定するという考え方はとらず、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」について徹底して審理し、検察側が、約1年2か月にわたって静岡地検の一室で行った「味噌漬け実験」による色調変化の観察に、大善裁判長自らも立ち会うなどした上、「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という認定にたどり着きました。そして、その客観的な立証に基づいて、「事実上捜査機関の者による可能性が極めて高い」との判断まで示したのです。

検察の特別抗告は許されない

慎重かつ緻密な審理を経て出された大善決定に対して、検察が、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」についての客観的な事実認定に異を唱えて特別抗告をしても、その判断が覆る余地がないのは当然です。それでも、検察が特別抗告をするとすれば、「捜査機関による組織的証拠捏造」について、「事実上捜査機関の者による可能性が極めて高い」とまで述べた大善決定に服するわけにはいかないという、「検察の面子」によるものということになります。

検察は、大阪地検特捜部の主任検察官による証拠改ざん問題という重大な不祥事を起こし、その際、特捜部長、副部長の「犯人隠避」を立件しました。「改ざん」「隠蔽」の批判に晒されたが、特捜部長以下の問題に矮小化し、検察の組織的問題は十分に解明されませんでした。それに加えて、陸山会事件の虚偽捜査報告書による検察審査会騙しが組織的に行われた疑惑も全く払拭できていません。そういう検察に、「捜査機関による組織的証拠捏造」の可能性を認めて再審開始の判断を行った大善決定に対して異を唱える資格などありません。

検察は、特別抗告を断念すべきです。

***

結局、検察は特別抗告を断念し、再審開始決定が確定しました。これまで、再審開始はほとんど例外なく再審「無罪」判決につながっており、それらの事例からすると、今回も、検察が再審で有罪を立証できる可能性は皆無に近いといえます。

現行刑訴法では5例目となる死刑確定事件の再審開始決定となった袴田事件は、刑事再審制度の在り方、再審開始決定に対する上訴の是非、科学的鑑定の信用性等の制度上の問題に加えて、捜査機関による組織的な証拠捏造の可能性という、刑事司法の枠組みの信頼性自体に関わる問題にも発展しました。まさに、戦後の刑事司法の歴史に残る重要事件になりました。

この事件で、弁護人、検察官、裁判所が、どう対応し、どのような判断をしてきたのか、そして、科学的立証に関わった鑑定人が、どのような科学的分析を行い、どのように評価されたのか。刑事司法の歴史的事実として、検証していく必要があります。

今後、新たな展開があれば、また、このニュースレターで解説していきたいと思います。

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